古地図を味わう楽しみ

荒俣宏
1947年東京生まれ 慶応義塾大学法学部卒業後、日魯漁業入社、コンピュータ室勤務ののち、翻訳・文筆活動に入る。 現在、文学の翻訳、博物学研究、小説執筆などの幅広い著述活動をしている。

イギリス海軍水路部にて

世界中の海図をコレクションしているイギリス海軍水路部に、見学がてら古い日本の地図を調査に行ったことがある。
イギリス海軍水路部は、現在もなお、世界のどこかで何か新たな建物やら新たな港湾工事があると、すぐに海図を修正する仕事をつづけている。延々と、ほぼ二百年にわたって根の要る仕事をこなしている。
 
「ま、007(ダブルオー・セブン)のような役割を果たしているわけですね」
と、案内してくれた広報のスタッフがいっていたが、つまり、その気になれば諜報部員そこのけの情報を手にいれられるぞ、と胸を張りたかったのであろう。
 
ここにあった日本周辺の海図は、ご存知のように、伊能忠敬が制作した「小図」と通称される図をベースに置いている。当初、イギリスは軍艦を仕立てて日本近海に押し寄せ測量を行なったのだが、幕府の役人から渡された伊能小図をチェックしてみて驚愕した。きわめて精密だったからである。

 
この伊能小図と、イギリス海軍自身の測量結果などを加えて、海軍の手になる最初の日本周辺水路図と地図とができあがった。
 

地図製作現場の「癖(へき)」

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そのとき広報の人といろいろ話をしたのだが、18-19世紀当時ヨーロッパでも国によって海図のつくり方に特徴というか「癖(へき)」があったという。なにしろ話し手がイギリス人なので、話を割引いて聞かないといけないのだが、かれいわく、
「フランス人が地図や海図をつくるときは、丹念に測量をしない。一地点と一地点とを詳しく測量すると、あとは両地点のあいだに適当な線をひいて陸地の形をつくってしまうんだ。その点、イギリス人はぴっちり測量してからでないと、海岸線を書き込まない。」
 
この話をもっとよく聞いてみると、測量を指揮した船長の気質によっても、つくられる海図や地図の精度に差が生じるという。偉大なクック船長は多くの後輩を教育した名伯楽だったが、かれの下で作成された地図は「主張が強すぎる」のだそうな。その点、バウンティ号の叛乱で知られるブライ船長は、実に緻密に測量し、見やすい地図を制作した。
 
おもしろいことに、日本でも水路部でつくられた海図は、伊能とイギリス海軍の技術を継承している。反対に、陸軍は明治13年に詳しい彩色地図の作成に乗りだすにあたって、フランス陸軍からその技術を学んでいる。「点と点のあいだに測量なしに線を引く」とイギリス人にいわれたフランス式である。しかし、このフランス式地図の原図を見る機会に恵まれたとき、またしてもその精密さに度肝を抜かれた。もちろんフランスも、きっちりと測量する技術を所有していたのである。
 

地図-それは驚愕の図像

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地図や海図は、軍事的視点からであれ航海的視点からであれ、一つの共通した特色をもっている。それは、ふだん立体的にしか見られない地形を、神の目から眺めるかのごとく平面的に見せる力である。いわば、概念的につくりあげた図によって、リアルな世界のありさまを再認識させる力である。
 
地図は一種のフィクションだが、具体的でありすぎるために断片的にしか把握できないリアリティーの眺めを、構造的に明らかにしてくれる。
いわば、目玉をびっくりさせる驚異の図像なのである。なぜなら、たとえば日本列島の外形がどうなっているか、といったことは、肉眼でそれを明らかにできないからである。
 
目で確認できないのなら、頭で想像するしかない。その想像のうち、最も大胆な手段を用いて制作したのが、地図や海図なのである。
わたしたちの住む土地を、完全に真上から眺めることは、それが現実にあり得ないゆえに、もっとも刺激的な想像図となる。
 

日本における地図製作の歴史

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そこで、わたしたちが知っている日本列島の形がいつごろ図示されたかを調べてみよう。意外なことに、日本列島とわかるだけの明確な地形が最初に登場するのは、日本に西洋文化の影響が及ぶはるか以前、すくなくとも14世紀ごろの行基図においてなのである。いったい、当時はどうやって日本の国の形を測ったのだろうか?
 
すでに6世紀あたりから、地図と呼び得るものが日本で制作されている。正倉院御物にある近江の地図は驚くべきことに、ちゃんと真上から地表を見たかたちで描かれているのである。ただし、四周を囲む山々は真上からの図でなく、あくまで透視図法的に見た立体図、つまり横から見た図になっている。まるで小学生の絵のように、真上からの視点と真横からの視点を混在させることで、地図というショッキングな図像は成立しているのである。
 
しかし、少なくとも日本国全体の外形を暗示する地図は、行基図を俟たねば実見できないようだ。仁和寺蔵の行基図(1305)は、平安京を中心にし、紀州がいちばん上に来るという、南を上にしたおもしろい日本地図になっている。その外形は、すでにして、わたしたち現代人にもすぐに「日本」とわかるものになっており、おどろくばかりである。
 
この行基図は、山城すなわち京都を中心に、そのまわりに泡みたいに丸い各地方(国)が重なりあう描き方で統一される。またこの図が、九州を上に、陸奥を下に描いてあるせいで奇妙は奇妙だが、まことに日本国らしい形をしているのである!
 

好奇心疼く地図の「奇」

さらにおもしろいのは、この行基図に「羅刹国」あるいは後に「女護国」なる大きな土地が、伊豆諸島のさらに先に描かれている点である。14世紀の行基図には、まちがいなくある。こういう奇怪な島をみつけると、好奇の虫が疼いてくる。これだから古地図を眺める癖は治らないのである。
 
羅刹国は日本の地図には17世紀後半の制作品たとえば『本朝図鑑綱目』などに残されていて、「女島」と書き込みがしてある。ところが、同じ時期までに制作された西洋の日本図には、八丈島のかなたにある女だけの大国が、まず出てこない。これはどういうことなのか、と誰しも首をかしげると思う。
 
この羅刹国、元来は仏折に由来し、毘沙門天の下に属する夜叉の一種、あるいは人食鬼という。遠い洋上にその国があり、羅刹は美しい女人に化けて、やってきた人間を食うという。また隋時代の百科には、婆利の東の洋上にある国で、そこに住む人は髪が赤く、全身が黒い、と書いてある。
 
どうやら南方の島の一つらしいのだが、仏説を採りこんで、「女人(実は羅刹)の住む国」という話に落ちついたらしい。これが西鶴の『好色一代男』などでは「女護島」となる。この小説は1682年の刊行であるから、女護島は地図にちゃんと存在していたことになる。
 
西洋の地図になぜ「羅刹国」らしき島(または陸)が描かれていないのか。これについてはよく分からないが、19世紀も後半になってすら日本の東南海域には「幻の島」がいくらでも描かれていたことに起因するのかもしれない。そのうちとくに重要なのは、16世紀以後の西洋航海者を熱中させた日本の東にあると信じられた金島、銀島(リカ・デ・オロ、リカ・デ・クラタ)だろう。これを発見しようとして、タスマンが1639年に調査航海まで試みている。
 
たぶん、女の島よりも金銀の島のほうに西洋人の関心が集中したのだろう。
 

古地図は絶妙の料理

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もうひとつ、古い地図には多くのカルトゥーシュやヴィニェットすなわち装飾画が描きこまれていて、これがまた、よく観察すればするほど興味が尽きなくなる代物なのである。
 
筆者が好きなのは、ゾイターの日本国図(1740)である。伊豆諸島の下に大きな島の外形が描かれていて、羅刹国と銘記していないが、どうも女護島であるらしい。その右に、徳川の葵紋をはじめ有力大名の家紋が描かれている。この絵を見るかぎり、西洋人は丸い形の家紋をギリシア・ローマで盛んに作られたメダルと同じものと考えていたようである。
 
左下に描かれた「日本人の風俗」は、有名な「傘を被って歩く婦人」の図なども見え、当時ヨーロッパで入手できた怪しげな日本紹介書を丹念にチェックしていることも分かる。
 
筆者は、古い日本図を、まず図像として楽しみ、そのあとで当時の人々が想像した日本の国の形とその位置関係を検べて楽しんでいる。いわば三度おいしさが味わえる絶品の料理だといえるだろう。
 
料理?
 
そういえば、地図を意味するマップはラテン語で「テーブルクロス」をあらわすことばに由来し、図表(テーブル)という語も「食卓」と同じタブラから来た。そういう地図に盛られた地理情報は、文字通り、絶妙の料理にほかなるまい。